プロフィール
私は来年の10月には、「赤いチャンチャンコ」と言っても若い人には分からないかな。
還暦、60歳になるんですよ!
人生100年時代なんて言われてますが、
あ〜、嫌だ嫌だ。
長生きなんて、したくはないですよね!
てなことで
今日は、アル中になるべくしてなった?これまでの人生を振り返ってみたいと思います。
三畳一間で親子4人、ド貧乏だった幼少期
生まれた時のことは、覚えてませんよね(笑)
で、物心ついた頃には、もう立派な、かなりハイレベルな貧乏だったと思います。
それでも、子供だったので世間を知らないから、自分ちが貧乏だなんて気がつかない。
親が離婚したんです、私が小学校に入学する前ぐらいかな。
その後、母親は再婚します。
それまでも貧乏だったのに、母親が再婚したら更にド貧乏になりました、チャンチャン!(笑)
3畳一間で親子4人、テーブルはりんご箱でした。
共同便所、共同キッチン?風呂なし。
いくら子供でも、住みにくい環境に気がつき始めますよね。
この頃から、荒んで行ったんだろうな、私の小さな胸。
元祖ズベ公 やっぱり不良高校時代
貧乏ながらも楽しい我が家!
なわけもなく
どこか影のある私?(笑)
別に不良の格好も行いもしてないのに「ツッパリ」だと言われまくっていた私。
更には、中学生なのに「男性経験アリ」 みたいな私。
この女なら「ヤラセテくれるんじゃないか」と、モテモテだった私。
どこからそんな雰囲気を醸し出してしまうんでしょう、私。
高校は普通の公立でしたが、ついには本当のツッパリになってしまいました。
もう、こうなったらヤケ糞、ズベ公だ!
な〜んてね。
でもね、その頃流行ってたのよ、ズベ公(笑)
ヤンキーなんてまだまだ先のお話しです!
ツッパリ憧れの大手化粧品会社に就職
「お前、化粧品会社ったって、瓶詰めに行くわけじゃないんだぞ!」
「はい、落ちてもいいので受けさせて下さい!」
そして見事に合格したのです、あの大手化粧品会社S堂に。
すごく、すごく憧れてたんです。
それなのに、当時付き合っていた彼と喧嘩して家出しちゃって、辞めちゃったんですよS堂。
その頃から、落ちたくなるんです。
何だかよく分からないけど、落ちたいんです。
とことん、どん底に。
堅気だけどヤ○ザみたいな男との結婚が!
アル中の種火がジワジワと燃え上がります。
そう、私のアル中の種火を大きくしたのは絶対に旦那です。
アルコール依存症の犯人探しをしてはいけないと言います。
誰のせいでも、何のせいでもない。
それでも私は絶対、絶対に旦那と結婚しなければアル中にはならなかった!
と、思うんだけど な。
なんかね、変な奴なんですよ、彼は。
そんなの分かって結婚したんでしょって?
それがね、私はまだ18歳だったんです。
最近の人は「アウトロー」って言うんですか?
うちの旦那さんはかなり!の「アウトロー」な男だったんです。
40年前はしょっちゅう、シャツに口紅付けて帰って来たもんですけど、最近ではシャツの裾にウンチを付けてるんですもの、アウトローでしょ〜(笑)
アル中女が3人の子供の母親に
と言っても、アルコール依存症はまだそんなに深刻な症状ではありませんでした。
ちゃんと、産中産後は飲まないでいられたんですからね。(えらくないって?)
でも、それ以外は絶対毎日飲んでました。
産後はいつからでしょう。
母乳が出なくなってからかな。
正直、よく覚えてません。
ついにアル中発症、発覚、地獄の日々が始まる
お酒を毎日飲むようになって、18年ぐらいになるのでしょうか。
ある意味、よくもったほうなのかもしれませんね。
そういえば、それまでは明るい酒飲みだったような。(明るく下品)
それが、少しずつ身体的にも精神的にもキツくなって来たような。
そして、ついにはドカンと一気にアルコール依存症のドロ沼地獄へと引きずり込まれてしまったのです。
どこからがアル中なの?
アル中が発覚する前の私のお酒の飲み方は、かなり酒癖が悪い方だったと思います。
まだ社会的には迷惑はかけてませんでしたが、家族には相当迷惑なオカンだったでしょう。
まぁ、どちらにせよ私は社会には出没しないのであまり社会的に問題はありませんが。
かなり酷い酒癖だったにも関わらず、誰からも「アル中!おまえはアル中だ!」と非難された記憶がないのです。
というよりも、家族、と言っても大人は旦那だけですが、やっぱりアル中、アルコール依存症などというものが、こんなに身近にいるとは想像もしてなかったんでしょうね。
どこからがアル中なのか、ボーダーラインはないようです。
徐々に徐々に、私の体、脳、心に蓄積されて行ったようです。
お酒で肝臓、膵臓を壊し、ついには糖尿病になってしまったのは45歳の時でした。
正式にアルコール依存症と診断されて
何だかんだと苦難を乗り越えて?やっとのことでちゃんとアルコール専門病院に繋がることができました。
結論から言わせてもらうと
非常に良かったです!
お酒をやめようと決心してから苦節10年です!(笑)
この病院に繋がる、ちょっと前には何度も救急病院に連れて行ってもらいました。
あまりの酷さに、救急病院の先生が
「この飲み方は普通じゃない。何か精神的な問題があるのでは?」
と、旦那に言ってくれたのです。
旦那が私のお酒の問題に初めて気がついてくれたんです。
向き合ってくれたんです(遅過ぎだって〜の!)
でね、とってもショックなお知らせがありました。
アルコール依存症は治療したら治る、また飲めるようになると思ってましたが
アルコール依存症は回復は出来るけど、完治はしない。
回復して、普通に生活するには断酒して生きて行くしかない!
ガ〜ン!!
アルコール専門病院はお酒を飲んでも怒られない
でも、お酒を飲んでの治療は受けられません。
病院では、外来での診察とディケアでのリハビリがあります。
私が通っていた病院のディケアにはいつも20〜30人程の人がいました。
老若男女、本当に色々な人!
いかにもアル中!っていう人や、えー、この人が本当にアル中なの?と思わずにはいられない人まで。
でも、み〜んな同じ。
同じ悩みを抱え、同じ症状に苦しみ、心からお酒をやめたいと願っている人ばかり。
中にはスリップ(再飲酒)してしまう人もいます。
もちろん、私も?私は!何度もスリップしました。
だからって、怒ることは治療ではありません。
どうして飲むのか、飲んでしまうのか、その原因を考え、矯正する治療をします。
グループミーティングでの分かち合い
ミーティングでは、何かひとつのテーマを決めます。
何でもいいんです。
例えば、『家族』というテーマなら
家族に対する想い、申し訳ないと思う気持ち、憎いという気持ち、会いたい、会えない。
自分の胸にしまってあった想いを吐き出し、共感したり感心したり、悲しんだり怒ったり、分かち合います。
もちろん、パスしても。
そうやって、仲間であることを段々意識し始めます。
それでも襲って来る飲酒欲求
病院で治療したからって、すぐには飲酒欲求がなくなるわけではありません。
飲みたい気持ちは収まりません。
ある日この病院は、患者が血液検査を申し込まないと、しないことが分かりました。
そしたら、もう「飲むっきゃないでしょ!」
あ〜あ、あんなに決心したのに…
1度お酒を口にしたら、とことん飲む。
ぶっ倒れるまで飲む。
それが私のモットー!(バカバカバカ)
当然、病院には通えなくなります。
病院スタッフはプロ?
ワーカーさんから電話がかかって来ます。
とても優しくしてくれます。
こっちの嘘なんて、バレバレ。
アルコール依存症は嘘つきが多いようです。
私も例外ではありません。
そ〜んなの、スタッフはお見通しよ!
でも、優しく対処してくれます。
「辛かったね、苦しかったね。」と。
そして、また解毒から、1からのスタートになります。
スリップは決して悪いことではないと言います。
お酒をやめようとする意識の中で何で飲んでしまうのか、何で何で?と自分の気持ちと向き合う試行錯誤を繰り返す。
みんな手探りしながら、模索しながら、辛い断酒を乗り越えようと頑張ります。
断酒に必要不可欠な三本柱
断酒継続には
1.通院の継続
2.抗酒剤の服用
3.自助グループに参加する
といった三本の柱があります。
この三本柱が安定していると、断酒も安定してくるということです。
本来なら、私の立場からもこの三本柱を大いに推奨しなければならないのでしょうが
私は一本柱ぐらいかな〜。
病院は3年ぐらいは通いました。
抗酒剤も飲みました。
自助グループミーティングも通いましたよ、少しだけ。
アルコール依存症の症状はほぼ同じです。
でも、アルコール依存症者の性格は違うので一概にこの方法が良いとは断定できないと思うのです。
マイペースで断酒の安定
断酒のための三本柱というものを経験しながらも、結局は自分の意思ですよね。
断酒初期の頃は、この意思が全く弱くて。
やっぱり、断酒がかなり落ちつくまでは三本柱に頼る?委ねる方が安全なんでしょうか。
私の場合は3年程経った頃から落ちついて来たんだと思います。
不思議と断酒が落ちついてくると、イライラや不安から解放されてくるのです。
だから、飲みたいという気持ちもなくなってくる。
負のループからも解放されます。
お酒に代わるもの
んなもん、あるわけないですよね。
あ〜んなに楽しかったんですもの。
あ〜んなに美味しかったんですもの。
いつか見た映画の台詞に
「不自由もないけど、感動もない」
まさに、こんな感じ。
アルコール依存症の人が抱えてる“生きづらさ”
勝ってな言いぐさですよね。
散々好き放題飲んでおいて。
てなわけで、私はお酒に代わるものとして
お菓子ー!
新しい風が吹いて来て
私の断酒も、やめたり、スリップを繰り返しながらも少しはマシになった頃
ずっと音信不通だった長男から
「子供が出来たので結婚します!」
というメールが来たのです。
新たに家族が増えるのです。
嫁や孫が出来るのです。
私には3人の子供がいて、もう、次から次へと新しい風が吹いて来て
バァバはお酒どころじゃなくなってしまうのでした。
断酒の安定を維持させたのは!
正直なところ、何で飲まないでいられるのか自分でも不思議なんです。
ごめんなさい、断酒の三本柱やってません。
ただ私がこれだ!と思っていることは
ウォーキングの継続です。
ウォーキングを始めて10年。
断酒継続もそろそろ10年。
それこそ、ウォーキングを始めた頃は、途中のコンビニで焼酎のワンカップを買って飲んじゃったりしました。
それが段々と、ちゃんと?行って帰って来られるようになってきたんです(笑)
きっと、凄く忙しい神さまがやっと私のウォーキング姿を見てくれたのでしょう。
だって、ウォーキングの時に必ずお祈りしてたんです。
「神さま、どうかお酒をやめさせて下さい。」
と。
お酒で、散々家族を苦しめ、自分を苦しめていた長い長い年月は取り戻せません。
やり直すことも出来ないでしょう。
ならば繰り返さないようにするしかありません。
アルコール依存症は病気です。
でも残念なことに
アルコール依存症という病気は
誰からも同情してもらえないのです。
どんなに苦しくもがいても、倒れても、重症でも
自業自得だと。
悔しい、そんな想いから
お酒に手を出さないのかもしれません。
これから何年、何十年生きられるかは分かりません。
私に出来ることは、毎日コツコツと前を向いて歩いて行くことです。
そう、毎日、今日一日を。